Friday, September 02, 2005

ちょっと思った一言

◯死は一歩一歩と忍び寄る。お鉢は必ず回ってくる。
◯人生の結末は悲劇である悪人にも善人にも等しく死はやってくる。
神は善人にも悪人にも平等である。
◯人生の結末は死である必ず殺される死ぬのは自殺者のみである。
◯我々は生まれた時から死刑を宣告されている。何時、死ぬか分からないだけである。
◯無限の空間と永遠の時間との真只中の一刹那を生きている我そして汝。
◯絶対はすべての存在を越えた存在、その存在を越えた存在、存在を越えた存在。
◯子孫末孫、老衰死
生存率、繁殖率、
自然選択・・・・・相互共存
競争的共存
自己保存・・・・(栄養衝動)-----農業、水産、  食事、調理、
子孫繁殖・・・・(生殖衝動)-----育児、交尾

栄養衝動、生殖衝動
睡眠衝動、護身衝動、  (攻撃衝動)
集団欲、

真、善、美、
◯人を信じかつ、へつらうことなく愛せ
人に信用され付け入らすことなく愛される
◯何のために生きているのか、ただひたすらに、死ぬまで生きるために生きている
◯なぜ自分が自分だとわかるのか
◯なぜ自分が自分であるのか
◯自力精進
自己の無力・・・・・自己の矮小性
 
人間的愛・・・・・他人には嬉しさを与え、自らは何も期待しない
         (豊かさ、優しさ、信頼[裏切らず])
    ・・・・・パプリックな精神
◯自力精進は大切であるが自分より優れた人を押しやってまで、自分の存在を維持しなければならないだろうか。
そのようにしないと、自分が滅んでしまう場合もあるかもしれない。
◯自分より優れた者には道をあける。
◯なぜ自分は「この」自分であるのか。
◯死んでいて当り前、生きているのは不思議であり偶然である。
◯自殺する方法は、餓死せよ。
◯今日、死んでも明日死んでも、百歳で死んでも
◯今日を生きぬく
◯我々は生きるために殺生をせねばならない、しかし私は自らの食を得るために殺生ができるだろうか、屠殺人が私の代わりに殺してくれる。
◯生かすために死すことがある。
◯逃げるものは食わず。
◯剣をもって向かってくる者に素手をもって勝つ
◯子にとっては親との関係より自分たちの夫婦関係が優先し、親にとっては自分たちの夫婦関係よりも子との関係の方が優先する。
◯子は親より秀で孫は子より秀でたら・・・・
◯貧困のせいで昔は間引きによる死があった。親は己が生きてゆかねばならぬために、生まれたばかりの自分の子を殺したのである。
◯試験において友に答を聞かれてやむなく教えるものは善、教えてもらおうと尋ねた者は悪である。
第三者は尋ねた者に憤りを感じる。
◯多額の金を拾ったら届けでるが少しならもらっておく。
◯電車に乗って煙管乗車をした時、後味が悪いが、しなかったら損をしたような気がする。
◯きのうの私はもう私でない。
◯一切を捨てただ一人で死んで行ゆく。
◯より深く苦も楽も味わい尽くした者の方が内包的にも外延的にもより豊かな個体である、あらゆる苦悩を恐れてはならぬ、苦悩を克服するものはより豊かな人間となる。苦楽がなければ、なんの刺激もなければ、自分の存在すら認識できないであろう。
◯心頭を滅却すれば火もまた涼し
◯死を眼前に控えた者が自己の生に執着するのは美しくない
◯生のもつ重みは相対的であるが、死の迫ってくる重みは絶対的である。
◯ニルヴァーナに達した人は「肉体的苦痛を感受するが、心的苦痛は感受しない。
◯ただ思いきって明日の生計なくば飢え死にもせよ寒え死にもせよ。
◯自分が他人からして貰いたいと思うように他人になせ
◯一切の生けるものどもに慈しみのこころがある者は何人も憎しみを抱くことがない。
慈悲:最も顕著な例は、父母が子に対していだく愛情
◯慈悲は求めることのない愛である
◯人間は欲望に動かされ欲望に支配され、そのために苦しんでいる。
◯生とし生ける者は食をもととしている
◯夜に非常食を食うなかれ
◯何人にとっても自己よりさらに愛しきものはどこにも存在しない、同様に他の人々にもそれぞれ自己は愛しい、故に自己を愛するものは他人に害さないということは、単に肉体的に傷つけないだけでなく、精神的にも害を与えないことをいうのである。
◯他人の過失をとがめ立ててはならぬ
◯殺さず、盗まず、邪 せず、偽らず、
◯  を含めて、男の心が妻以外の他の女に移るのを戒め、女は主人以外の他の男を、心の中でさえも求めない。
◯悪事を行なっておきながら、「誰も私のしたことを知らないように」と望み、隠しことをするひと、---かれを賎人なりと知れよ
与えられぬ花の匂をかいだだけでも盗みを行なったと思わなければならぬ
自ら悪を行ってはならないのみならず、他人をも為さしめてはならない
◯人格を完成した人はたとえ真実のことでも相手のためにならないことであるならば語らない。しかし真実でしかも相手のためになることであるならばたとえ相手に不愉快なことであってもそれを語ることがある。

◯老、病、死
 若、健、生

 偽、悪、醜
 真、善、美
◯息子は「シコノミタテ」となるために特攻隊を志願し、母親たちは息子を「とりあげられた」といって今さらのようになげくのである-------
成功しすぎた道徳教育」のために自分で手をやく親たちは多い
◯きばらず 手をぬかず
◯どんなことでも苦にせずできる
人殺しでも苦にせずやれたらたいへんだ
◯おれが浮かべば、あいつが沈むつらい浮き世
◯暴力による権力の打破はそれによって得た権力が再び私たちに同じような権力の圧迫をおしつけるであろう。
◯借金は自分の将来の労働の先売りである
◯「ナイフ」は色々のものを切るのに便利で生活に役立つが、一方、殺人にも使われる
◯水は生きていくためには欠くことができないが、洪水は我々の命をうばう
◯砂漠を旅行する場合、限られた水を少しづつ飲まなければならない、いくら飲みたくても一度に飲んでしまうと命を落とすことにもなる
◯自動車は左側通行、人は右側通行というのは、社会的約束としての約束事である。
◯車内で年寄りが立っていたら気の毒がって立つのが(席をゆずる)情であり、女性的である、立つものがないことに憤るのが正義であり、男性的である。
◯難破船の人は他人を殺したり食ったりするより餓死をすることを選ぶであろうか
◯ニューギニアの原住食人族の社会では人のこころを傷つけることは最悪の行為である
◯自ら負荷を加す
◯相手に多くを期待すると腹がたつことが、多い、何も期待しなければ腹もたたない
◯運命は自ら切り開くものである
◯「大海に潜む寿命無量の盲の亀が百年に一度その頭をだす、また唯一の孔ある浮木が海中に漂うて風のままに東し西する、人間に生まれることは、この盲の亀が頭を上げたとき、たまたまこの木の孔に遇うようなものである」雑阿含経(巻第15)
◯今ここにたまたまいる
◯1+1=2より2=2の方がより真実であり必然である、「甲は甲である」これほどの必然性はない、つまり自己は自己である、おのれはおのれであるという ほどの真実はない、しかし自己が自己であるというのはなんという偶然であろうか、自己が汝であってもよかったはずである。
◯「からす」や「みみず」が自分を自分と感じたり、死を意識したりしているだろうか。
◯自分をも含めた宇宙の構造は、人間のあらゆる考えや、イメージで描いているようなものでないところの、なにがなんだかわからないもの、ただ、たしかなのは夢かうつつか、今ここに自分がいることである。
◯死には苦しみがつきものであるから、死は否定的に感じるが、死自体の良否を根拠づけるものは何もないのではないか
◯毎日、毎日、砂時計の砂は落ちてゆく、今日も、砂時計の砂は落ちてゆく
◯ツアラトウストラは「意志が救いをもたらす」とせむしに教えた、せむしに生まれついたのは運命であるが意志がその運命から救い出すのである
◯ギュヨー:「汝の生をすべての方向へ発展させよ、内包的にも外延的にも出来るだけ豊かな個体であれ」
◯幸福へみちびくことも、不幸へみちびくこともありうるのが絶対である。
◯善人にも悪人にも、信じる者にも、不信じんな者にも神は平等である。
◯デカルトが神は中心から円周へ引いた直線がすべて等しいということが真でないようにもする自由をもっていると考えたのは意味の深いことである、いわゆる 知的直観の前には論理的制限を脱した可能性が成立するかも知れぬ、実数の立場にある限りは、自乗して-1となる数は無意味な不可能のものである、「可能的 存在に対する無」である、しかし複素数の立場に立てば√-1は積極的な意味をもった「有」である。
◯(進化)向上とは環境に対する適応力の増大と生活圏の拡大といってよい
◯恐竜王国の崩壊は私たちが日常的な自然の摂理にしたがって平和に生きているだけでは、真の安定は得られないことを教えてくれた(平野弘道 恐竜はなぜ滅んだか)
◯我々に必要欠くべからざる酸素は、太古にラン藻など植物が排泄した老廃物であった
◯すべての生物が老衰死
◯ちゃんとうんこがでる、しっこがでるまいにち
◯歯は夜には磨く
◯鈴木君はいった「したいと思う女と結婚するのよ」
◯自然選択、  生存・繁殖、  子孫末孫 老衰死
子孫を多く残したものが、増殖する
子が親の数より少ない数しか残せないならばいずれ滅びる可能性がある。
◯家畜---イノシシ(野性原種)とブタ(家畜)にみられる家畜化にともなう変化、同じ種でありながら、ブタの脳は小さくしわも少なく、あごは退化して歯 も弱くなっている---(江原 昭善 人類--ホモサピエンスへの道 改訂版 NHKブックス541 S62.12.20
◯偶然性と宗教との関係について考えて見るのに、今述べた偶然性に関する学的認識の限界がやがて宗教の起始となる。宗教の本質は不可知に対する帰依である。そうして偶然に対する驚異はやがて不可知に対する絶対的帰依の形を取るのである。
(3ページ省略)宗教の本質は畢竟、不可知に対する帰依である。そうして運命、即ち偶然に対する驚異、不思議のえにしに対する驚異がやがて不可知に対する 絶対的帰依の形を取るのである。偶然性の存在する限りに於いて、宗教は其の存在の哲学的理由を有つている。しかしながら此の哲学的理由は同時にまた宗教が 一切の概念的思弁を断念して単に不可知に対する帰依の形で存在すべきことを要求するのである。[哲学は単に合理的認識に立脚して認識の限界を限界として示 せばよいのである。](九鬼週造著、偶然性(講演)、1929.10.27、全集第二巻、p343、p346)
◯人生、最後は死ぬだけである
◯我々は無数の異なった我を含んだ無数の世界があり得たと考えることが出来る。我々はアメリカ人でもフランス人でもエチオピア人でも印度人でも支那人でも その他のいづれの国人でもあり得たのである。我々日本人であるということは偶然である。我々はまた虫でも鳥でも獣でもあり得たとさえも考え得る。虫でもな く鳥でもなく獣でもなく人間であることは偶然である。
◯創造的進化 ベルグソン
生命の過程には根本的な偶然性が存し、先行するものと後行するものとの間には不可通約性がある。生命の進化にあっては常に古いものによって説明しきれない 新しいものが創造される。生命は根本に於いて創造であり、発明であり、自発であり、自由である。一切の予定や予想を容れず、計画や目的を立てないで進む (3.433)